久しぶりに桜を見た。

「綺麗やねぇ」
「そうだな」

 前回見たのはいつになるだろうか。緩い風に吹かれて散っていく桃色を目で追いながら、記憶を遡る。
 あのときは一人だった。幼い自分の面倒を看てくれていた行商人のもとを離れ、面屋として生活をし始めて、数年。やっと仕事にも慣れ、落ち着いてきた頃だ。たまたま商売をしに訪れていた街にあった桜並木は、それはもう見事なものだった。
 この異世は大和の一角には、現世の日本にも負けぬ沢山の桜の木が、我が一等だと言わんばかりに頭を並べている。限られた場所、限られた時期に咲く季節の花だ。ほとんど覚えていないとはいえ、幼い頃現世の日本で暮らしていた俺にとっては、故郷のような懐かしさを感じる。

「豪さん、どこ見てはるん?」

 故郷に思いを馳せていたところ、空を見つめる目が不思議だったらしい。小狛が丸い目を更に丸くしてこちらを覗き込んできた。
 俺は視線を空から小狛へと移し、昔のことを考えていたと伝えた。すると、それを聞いた小狛が興味津々にその昔のことを尋ねてくる。
 いつものことだ。自分が知らないことを知りたがるのは、こいつにとって、そして俺にとっても当たり前のこと。面倒だと思いながらも、ついつい気が緩んで話してしまうのもいつものこと。小狛に促されるまま、幼い俺がどのように暮らしていたのか、どうしてお面屋になったのか、などぽつりぽつりと独り言のように話しだす。
 行商人の人の良さを話していたところで、柔い白の毛並みと赤い目の兎が二人分の団子と抹茶を運んできた。
 しばしその兎の赤い目と見つめ合ったところで、ああそういえば注文したなと思い出す。俺と小狛は、ここ――一本の大きな桜が有名な街へ花見にきたのだが、小狛にねだられこの付近の茶屋で買ってやったのだ。当の小狛は目を輝かせて、それらの乗った盆が腰掛に置かれるのを見ていた。
 朱色の腰掛と朱色の野点傘、漆の盆。桃色の桜の花びらがひらりと腰掛の上に落ちたときには、思わず目を細めて動くのを忘れてしまうほど、綺麗だと思った。
 にこりと微笑んで去っていく兎に会釈し、目線を先ほどまで見ていた美しい景色に戻すと、既にその景色の中から団子が一本無くなっている。すぐに小狛の方を見やれば案の定、甘味にとろけた表情と膨らんだ頬。風流というものを感じる気がないその行動に少々呆れて溜め息を吐くと、小狛は、何故食べないのかというようにこちらを瞥見する。「あんたが食うのが早すぎるんだ」と言ってやりたくもなったが、俺も俺で早く食べたいと思うのは否めない。俺は大人しく自分の団子を手に取り、口に含んだ。

「甘ぁい」
「俺のは甘くない」
「何で」
「醤油だ」
「欲しい! 一本交換して!」

 お互いに団子を口に含んでからは、甘い美味い交換だの合戦である。桜の花はどこへやら、団子を巡ってあれやらこれやら口を出す。俺と小狛のお目付け役のような真白が今はいないが故、限度はあるが好き放題だ。少なくとも、しばらく喚き合い、隣の腰掛に座る魚人の老夫婦がくすくすと笑い始めるまで、自分たちの大声に気付かないほどには。

「すんません」

 慌ててその老夫婦に謝ると、青い鱗を陽光に煌かせて胸びれを振り振り、構わないと微笑まれた。どうやら微笑ましいという意味で見ていたらしいが、さすがにこのまま大声で喚き続けるわけにもいかないので、小狛へ向き直り静かにと言いつけた。「豪さんだって大声出してたのにうちだけ」、だとかぼそぼそと文句が聞こえたのは気にしないことにする。
 結局一本ずつ交換した醤油団子と餡団子を堪能し、抹茶を飲んで一息吐いた頃。小狛を見やると、老夫婦とは逆隣の霊の男女を興味深そうに見つめていた。俺も気になってそっと伺うと、どうやらその男女は恋人同士らしい。団子を手に相手に食べさせ合って、楽しそうに話している。
 小狛の手には、あと一つだけ餡団子が残っていた。――なんだか嫌な予感はしたんだ。

「豪さん、うちあれがやりたい。あーん、て」

 ほら、きたぞ。
 予想していた通りの面倒な展開に対して眉間にしわを寄せつつ、平静を装って抹茶をすする。

「……やめとけ」
「どないして~、ええやん!」

 簡単には諦めずに食い下がってくるのも予想通り。予想通りではあるが、このままではいつまでたってもらちが明かない。ここは一つ強く言ってやらないと、と意気込んでから口を開いた。

「真白サマに怒られんだろ! 濡れ衣着せられんのいっつも俺だからな」
「真白は今おらへんもん、秘密にしとればええやんね」

 ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。その後も予想通りで、そして全く困った展開だった。とりあえず真白の名前をだしておけば少し大人しくなるだろうと思ったが、その読みは外れてしまったらしい。こうなると俺は小狛に勝てない。いや、勝つことはできるのだが、そうするにはよっぽどの大声と低い声、恐ろしい表情で叱りつける必要がある。今そんなことをする必要がないのは俺自身がよくわかっていた。
 小狛が俺に餡団子を持つよう押し付けて、自分は目の前に陣取り大きく口を開ける。こうなったら意地でもやってやるものかと、手にした餡団子をそのまま自分の口へ持っていこうとした。
 すると、小狛の目が揺れて眉がへにゃりと下がる。……ああ、このまま食えたものならどんなに良かったかと思いながら、口へ持っていった餡団子を食べることなく手を降ろす。しわが寄りすぎた眉間を押さえて溜め息を吐き、仕方なく、開けられた口に餡団子を持っていってやることにした。無論、あーんだとかそーんだとか知らないが口は頑なに開かなかったが。
昔見た桜並木は、それはもう見事なものだった。けれども、今二人で見ているたった一本の桜も悪くはない。
 桃色が散る中で、美味しそうに最後の餡団子を頬張る小狛。横目に、あの老夫婦も真似をして楽しそうに団子を食べさせ合っているのが見えた。

 また来年。