鳥がさえずる、晴天の日。
 それにも関わらず、俺たちは屋内の人だ。

「ちょっと待っててな、稲槙ちゃんに見せたいもんあるんよ! 真白も来て」
「はいよ」

 今借りている宿の面打ち作業部屋へと、小狛と真白が連れ立って消えていく。とたた、という軽い足音が鳴り、次第に聞こえなくなった。
 妙な沈黙を共有する俺と客人――稲槙の間に陣取るのは、古びた味のある囲炉裏。それにかけてある小鍋に入ったお湯を、茶葉の入った急須へとぽとぽと注ぎ入れる。辺りに茶葉の良い香りが広がると同時、注ぎ入れる音が嫌に目立って気まずい雰囲気が悪化したような気がした。
 行儀良く正座をして俯き自分の手を見つめているのは、俺よりずっと年下の少女だ。嫌いというわけでは決してないのだが、どうやら俺は彼女が少し苦手らしい。非の打ちどころがないような良い子であるので、どこがと聞かれると自分でもわからないのだが。
 そうこう考えているうちにお茶が頃合になったと見て(正直に言うと俺の場合適当な感覚である)、あらかじめ温めておいた湯呑みに注ぎ入れ、湯気が上るそれを何も言わず静かに稲槙へと出した。

「ありがとうございます」

 止めていた呼吸を再開するように、「やっと喋ることができる」とでも言うように、彼女は礼を述べて微笑む。俺のほうはというと、そんな彼女を瞥見して手元の面の磨き作業を再開するだけ。全く、愛想の無さに自分で呆れそうなほどである。だが、呆れはしても、愛想を良くする実践などはできそうにないのが本音だ。
 また、長い沈黙が辺りに漂った。
 実を言うと俺はこの沈黙がそこまで嫌いではなくむしろ落ち着くほどなのだが、稲槙はそうではないと見える。異常な気まずさを感じているらしい、お茶を喉を鳴らして飲み、その感想を言おうとしていたのだろうが――生憎淹れたてであるため、熱かったのか咳き込んでしまった。

「っけほ、あの」
「落ち着け」

 さすがの俺も、相手に火傷をさせてまで喋らせるほど酷で無口な男ではない。閉じていた口を開き、申し訳なく思いながら、咳き込む稲槙を宥めた。
 お恥ずかしいと頬を紅潮させた稲槙は、予想したとおり、お茶の感想を伝えてくれた。内容は至って平凡で常套句を駆使した社交辞令とも言うべきものだったが、彼女の場合嘘は言わないであろうし、褒められて悪い気はしない。
 俺が気持ち表情を綻ばせると、彼女はそれは嬉しそうに笑った。やはりこの表情筋は、緩ませたときには達成感があるほど硬いらしい。

「お面、見ても良いですか」

 今ほどのことで溜飲が下がったのか、湯呑みを置いて明るい声で稲槙は問うてきた。
 俺もできる限りの明るい声を心がけて返答する。

「見る限りは構わん。触りはするなよ」
「はい」

 良い返事を返してくれた稲槙が興味津々に見つめるのは、古びた床にずらりと並べてある磨いたばかりの面たち。唯一俺が情熱というものを注ぎ、熱中するものだ。普段言動にしなかった感情などは、大体面を打つとき一緒に打ち込んでいると言ってもいい――のだが。

「豪さんのお面は、無表情が多いですよね」

 こう言われるとおり、決してそれが表に出るわけではない。あくまで、目視できない思いを入れるだけだ。ひょっとしたら何の効果も無いのかもしれないが、俺自身これで気持ちの整理をつけられているので、それはそれで構わないと思っている。

「被った奴の性を大事にしたいからな。綺麗なところも、汚いところも。俺の打つ面は隠しも引き立てもしない」

 間を置いて自分の面に対する思いを連ねると、稲槙はうんうんと大げさなほどに相槌を打ってくれる。

「なんだか豪さんらしいです、真っ直ぐで嘘を吐かない、っていうんでしょうか」

 と、相槌の間に思ってもいないような言葉が耳に飛び込んできた。
 真っ直ぐで嘘を吐かない。果たして本当にそうだろうか。少なくとも、俺自身はそうだと思えない――そう正直に伝えると、稲槙は不思議そうに小首を傾げた。他から見たら俺は真っ直ぐなのかそうでないのか、俺自身と稲槙の二人だけでわかることではないだろう。
 それでも俺は、俺よりずっと、悲しいくらい真っ直ぐな奴なら知っていた。

「あいつのほうが、嘘は吐かない」
「小狛さんですか」

 曖昧な人物を確認するその言葉には、静かに頷く。

「ま、真っ直ぐってより馬鹿だけどな」

 そして、言われた本人からしたら余計な一言を付け足してやった。

「それ、本人に言ったら駄目ですよ?」
「言うかよ。拗ねて面倒なことになるのはわかりきってんだ」

 苦笑する稲槙にそう返して、今磨き上げたばかりの手元の面を覗き込む。白く光るその面の奥には穏やかに表情を綻ばせる自分がいて、それを確認した途端に理性か誇りか何かで普段の愛想の無い顔に戻った。
 ゆっくりと瞬きをしながら顔を上げて稲槙を見やると、俺の表情や反応を見てにこにこと少女らしい笑みを浮かべているのである。

「小狛さんって、すてきな方ですよね」

 自分でよくわからないことには、腑に落ちなくてもいちいち反論はしない。

「人を笑顔にできるって、そう簡単じゃないと思います。それも話題に出ただけで」

 そして、よくわからないがゆえに。

「まぁ、否定はしない」

 返答は自信を無くし、曖昧になる。

「ふへへ……自分、豪さんが真っ直ぐじゃないっていうのが段々わかってきました」

 対して稲槙は自信あり気に笑うので、なんだか複雑に気持ちになった。
 何か反論してやろうかと口を半開きにしたそのとき。噂をすればというものだろうか、ここでまたあの軽い足音が聞こえてきた。心なしか、目当ての物を取りに向かったときより急いでいるようだ。

「じゃーん!!」

 声も体も勢い良く現れた小狛は、頭上に酷く不細工な面を掲げる。
 あまりに悲惨なできばえに眉間にしわを作る俺など知らず、小狛はそれを稲槙に差し出した。

「これな、うちが打った兎のお面! ちょっと不恰好やけど、稲槙ちゃんにあげる」
「わ、かわいい! ありがとうございます……!」

 材料がほしいと言いだしたのはこれか、と一人納得した。そして、その面を一目見て酷く不細工だと思った俺の大人気なさを諌めたいと思った。小狛なりに必死に作ったのだろう、貶すのは良くないことくらいわかっている。これではよっぽど稲槙のほうが大人ではないか。

「あっ! お面綺麗になっとる~」

 そんなことを考えていると。小狛が突如、こちら――面のほうへ手を伸ばしてきて、俺は嫌な予感にびくりと肩を震わせる。

「おい、触っ――」

 慌てて制止の声をかけたときには、もう遅い。

「あ。……かんにん」

 稲槙に手作りの面を渡すという目的を達成して、一瞬で行動の標的を磨いたばかりの面に変えた小狛に、俺の瞬発力と危機察知能力が若干劣ったというだけの話。だが、そのお陰で、折角満足いくまで磨き上げた面には彼女の指紋がべったりだ。

「あらら」
「また小狛がやったのかい」

 これには、稲槙も少し遅れて戻ってきた真白も呆れ顔である。
 いつものことであるから激怒などはしないが、いい加減にしてほしいと思う。仏の顔も三度までというやつだ。――そんなことを言ったものなら、「豪さん仏さまと違う! 鬼やもん鬼ー!」などと言われるのは容易く想像できるので、言わないが。

「ったく……磨き直しだな」

 溜め息を一つ吐いて布と面を手に取ると、こちらの気も知らずに小狛が無邪気に顔を覗き込んできて言う。

「うちが磨く?」
「いやあんたは駄目だ、壊すだろ。前科もある」
「そやねぇ!」
「せめて否定しろよ」

 静かだった部屋はあっという間に嵐の中で、俺と小狛の漫才会話が繰り広げられる。稲槙が笑う。小狛も笑う。真白は呆れるままで、俺は笑えない。俺にとって全く笑いごとではないのだと言っても、きっと無駄なことだろう。

「もういい。今度から気をつけろ」
「はぁい!」

 やけに元気な返事が、また面磨きを再開する俺の耳に居残った。
 こいつは、真っ直ぐで。馬鹿で。世間や人の闇なんかは何も知らない。だが、俺もそんなこいつの傍が何かと言って居心地が良く、これからもこうありたいと思ってしまうから、十分馬鹿かもしれない。
 真っ直ぐでない俺は、口に出しなどしないのだが。