晴れた昼空の下、うちは浮き足立って宿を飛び出した。今日は、街へ遊びに出かけてしまおうと思う。
「稲槙ちゃん早く早くー!」
「待ってください小狛さん、ほんとに良いんですか……!?」
大人しく宿で待っていろ。そう豪さんに言われたのは確かで、真白にも余計なことはしないように言われたのも間違いない。
でも、今うちは自由なのだ。普段は豪さんと真白にあれはするな、これは駄目だと言われるばかりで窮屈な思いをしていたが、今はその二人が揃っていない。豪さんは特別な仕事(いつもはうちもついていくのだが、今回邪魔になるらしい)、真白は辺りの見回りに行って、空が暗い色に染まるまで帰ってこないのである。
もう一つ、街へ遊びに出かけたいと思う大きな理由がある。普段いることのない、友達の稲槙ちゃんがいるのだ。一度、友達と一緒に街へ遊びに行って、買い物をしたり美味しいものを食べたりしたいと思っていた。叶わぬ夢だと思っていたそれが、今目の前にある。
こんな滅多に無い機会を逃してなるものかと、うちはもう一度足に力を入れ、心配する稲槙ちゃんをなんとか説得して街へ繰り出した。
*
雑踏する商店街は、自由の身である今燦然と輝いて見えた。
知らない音、美味しそうな匂い、店頭に並べられた色とりどりの雑貨。豪さんの打ったお面が風呂敷の上に綺麗に並べられている光景も好きだが、物がこんなに鮮やかに見えたのは初めてかもしれない。
人混みを潜り抜けて、うちは早速目に入った髪飾りのお店の前に立った。花柄に矢柄、唐草模様まで色々な色と模様の髪飾りが所狭しと並べられている。
「いらっしゃい! 気に入った物があったら私の前に立って付けてみてもいいのよ」
店の奥から女性の声がして、ぱっと顔を上げると、そこにはうちと瓜二つの――いや、うちが立っていた。
鏡だ。どうやらここの店主は鏡であるらしい、横から手の役割らしき紐が出ていて、その紐が声に合わせてゆらゆら揺らめいていた。
店主の言葉に甘えることにして、どれを試そうか手を迷わせていると、鏡がふわりと浮いて髪飾りの中から一つの髪留めを手に取りうちに差し出す。
「綺麗!」
「あなたにお似合いよ」
手の平にそっと置かれたその髪飾りは、空色の下地に桜の花と枝が描かれた、明るく可愛らしい春の雰囲気のものだ。試しに鏡の前で髪に付けてみると、以前からずっとそこにあったように落ち着いた。更に色んな角度から見てみて、うん、と頷く。最初の買い物はこれに決めた。
「小狛さん、お金持ってるんですか?」
「うん! 豪さんにちょっこしもろてたお小遣いがあるんよ」
大層な着物だとか漆器だとかの買い物はできないが、今まで使わずにこつこつと貯めてきただけあって、少しの買い物と食事ができそうなくらいの金額はあった。
小さながま口の財布を覗いてひいふうみいと小銭を数えていると、鏡がくすりと笑った気がした。口の無い鏡がどうやって笑ったのかはわからないけれど、なんとなく恥ずかしくなって照れ隠しにうちも笑う。稲槙ちゃんも隣でくすくすと笑っていた。
鏡に言われて、置いてあった箱に代金を入れ、最後にお礼を言ってお店を後にした。勿論、早速買った髪飾りを付けて。
「とってもかわいいです。似合ってますよ」
「ほんま? えへへ……。髪飾り、稲槙ちゃんも買えば良かったのに」
先ほどのお店では気に入った物は無かったらしく、稲槙ちゃんは何も買っていない。だから次は稲槙ちゃんが行きたいお店に行こうと言うと、彼女は「自分はいいから」と慌てて遠慮し始めてしまった。稲槙ちゃんはこれだから、聞く前にどこかのお店へ連れて行った方が良かったかもしれない。今からでもそうしたい。
「んー……じゃあ、あそこ!」
うちが指差したのは、“野菜焼き菓子”という看板の付いたお茶屋だ。野菜大好きな稲槙ちゃんはきっと喜ぶだろう。そう思った通り、ちらりと稲槙ちゃんの表情を伺うと、心なしか頬を赤く染めて嬉しそうである。そんな様子を見てうちも嬉しくなり、稲槙ちゃんの手を引きそのお茶屋に向かって駆け出した。
まだ、空は青い。
*
「お譲ちゃんたち、もう暗くなる。早くおうちへ帰りなァ」
人の顔をした烏が、笑いながら言った。
おうちへ帰る。そうしたいのは山々である。でも、今うちらにはそれができないのだ。
「どないしよ、道わからへん」
じわじわと黒が茜色を覆っていくなか、べそをかきながらあてもなく歩く。折角欲しいものも買えて食べたいものも食べられて、素敵なものも沢山見られたというのに、帰ることができないのでは台無しだ。
うちが、豪さんと真白に怒られるのでは、もしかするとこのままずっと会えないのではと心配していると、先を行っていた稲槙ちゃんがぴたりと歩みを止めた。何だと思って前を見ると、僅かに射す夕日の影で黒い靄のようなものが蠢いているではないか。
――あれは、なんだろう。生き物だろうか。見たことがない怪異だ。
「稲槙ちゃ――」
「しっ……!」
喋ることを阻止され、どうしようものかと戸惑っていると、頭上を先ほどの人面烏が笑いながら飛んでいった。
「――夜がくるぜェ」
その時。どこからか大きな大きな鐘の音が鳴った。
一度だけ、けれども重く響いたその音を合図にしたように、まだ疎らに歩いていた“昼間の”人々が一斉に消え、飛び去り、走り去った。そして、それと入れ替わるように先ほど見た黒い靄や形を成さないもの、恐ろしく見えるものがちらほらと姿を見せ始める。
「稲槙ちゃん、これ」
小声でこれは一体何かを問うと、稲槙ちゃんは静かに頷く。
「夜です。豪さんや真白さんに、夜は外へ出ちゃいけないって言われてましたよね」
「うん……言われとった」
夜に何故外へ出てはいけないのか、その理由は知らないが、夜に出かける理由もなかったので大人しく言うことを聞いていた。なんとなく怖いものだとは聞かされていたけれど、実物を目にしたのはこれが初めてだ。
稲槙ちゃんいわく、夜は夜行性の怪異や霊――多くは強い怨念を持ったもの、魂や命そのものを餌にする危険なものが活動する時間らしい。だから、人間の豪さんは勿論昼行性の怪異や霊も、危険だからと夜は特別なことがない限り外には出ないのだという。もし夜に外にいるような状況になってしまった場合は、音を立てずに逃げるのが得策だというのも教えてもらった。夜行性のものは視力をあまり必要としないため目が悪く、音を立てなければ気付かれずに済むのだとか。
「そーっと歩いてくださいね」
「うん」
不規則に蠢くものたちの横を静かに歩いて通り抜け、生臭さや冷たさにぞっとしながら前を見て進む。今は稲槙ちゃんを頼りに動くしかない。
(……うちがこんなこと言い出さなかったら)
買い物が楽しかったのは本当だ。うちは行って良かったと思っている。けど、稲槙ちゃんは違うかもしれない。なぜって、たまの休みに半ば無理やり買い物に連れ出され、迷子になって夜になってこんな目に遭っているのだから。いくら優しい稲槙ちゃんでも、怒ってもおかしくない。
繋がれている手に力を入れるとじわりと体温が伝わってきて、少し安心する反面申し訳なさが溢れるようだった。
「小狛さん」
そんなことを考えていた時に話しかけられたものだから、ついに怒られるのかと覚悟する。
「な、に……?」
「怖くないですからね、大丈夫ですよ」
――そう笑いながら掛けられた言葉は、文句でも弱音でもなく、なんとも稲槙ちゃんらしい励ましの言葉だった。手に力を入れたからか、怖がっていると思われたのだろうか。
実際怖いのには変わりはなかったので、ほっと息を吐いて、うちも笑い返した。
それからしばらく歩いて、あのお茶屋の“野菜焼き菓子”の看板を見つけ、やっとのことで帰り道を見つけることができた。これで宿に帰ることができる。
そう、胸を撫で下ろした時。
カラン、と足元で音が鳴った。
周りの怪異や霊が一斉にこちらを見て、どれほど恐ろしく思ったか。
「――っ走ってください!」
「でも、髪飾り……っ!」
「危ないです、残念ですけどそれは……っ」
そう。音を立てて落ちたのは、今日買ったばかりの髪飾りだ。既に黒い靄に埋もれかかっているそれを取りに戻るのは危険すぎる。稲槙ちゃんの言う通りだけれど。うちは、諦めきれなかった。
全く、自分でも面倒な意地があると思う。
「……っ大丈夫!」
「あっ、小狛さん!?」
身を屈めて、髪飾りに手を伸ばす――と、背後で聞き慣れた声がした。
「何やってんだ!!」
大きな声。低い声。安心する声。そして、……怒っている声。
振り返ると、鬼の形相をした豪さんが、護身用の刀を鞘から抜いてこちらに駆け寄ってきているところだった。そして、その肩の上には、同じく鬼の形相をした真白。
でも、その二人が近くに来る前に、手が異様に冷たいものに包まれる。耳元で、言葉ともとれる掠れた声がして――。
ぱっと振り向くと、赤黒い何かが今襲いかかろうとしていた。
「こはっ――」
「小狛さん!!」
ぎゅっと目を瞑ると、何やら体が宙に浮いたような感覚がした、ような。
*
「う~ん……」
「目が覚めました!? 大丈夫ですか……!?」
ゆるりと重い瞼を持ち上げて、まず飛び込んできたのは、眉を下げてこちらを覗き込む心配そうな稲槙ちゃんの顔。次いで、真白も心配そうな顔をしてこちらを覗き込んできた。
そうだ、うちは豪さんと真白に内緒で稲槙ちゃんと街へ遊びに行って、迷子になって、夜になって――ああ、やってしまった。
自分の失態に、小さく溜め息を付く。こんなつもりではなかったのだけれど。
落ち込むうちの様子を見ながら、真白が静かに言う。
「お前、稲槙に感謝しなよ。この子がお前のこと助けて、ここまで運んできてくれたんだから」
「……そうなんや、かんにんな稲槙ちゃん」
「いえいえ、お怪我がなくて良かったです」
そう言って笑う稲槙ちゃんの向こうから、豪さんが氷水と布を持ってくるのが見えた。まだ横になったままのうちの隣に座って、丁寧に布を塗らして額に当ててくれる。とんでもなく怒っていて、目が覚めた途端に怒鳴られるのではと思っていたから、少し安心した。
「……髪飾り」
結局、あの黒い靄から取り返すことはできなかった。空の手の平を握って開いて、無いという事実に、つい顔をくしゃりと歪めてしまう。初めて自分で買ったもの。空色と桜模様の綺麗な髪飾り。折角手に入れたそれは、今やどこにいってしまっているかわからないのだ。
「そんなに気に入ったやつだったのか」
「豪さんと、真白に……見せたかってん」
ぽつりと小さな声で言うと、豪さんの大きな手がくしゃりと髪を撫でた。見上げると、完全に笑ってはいないものの、豪さんも真白も優しい顔をしている。
「また今度、見に行こうな」
「今度はみんなで行くんだよ」
「今日はすごく楽しかったです。だからまた自分も連れて行ってくださいね、小狛さん」
「……うん。おおきに」
勿論、次の日には豪さんと真白にみっちり説教された。やっぱりこれは避けられない。
――今回のことで、もう約束は破らないと決めた。