寿藁はよく笑う。
 自分の内なる感情を隠蔽するのが特出して上手いというわけではないが、例え辛いときでも悲しいときでも笑うように努力していると見える。そうしていれば些か気分が軽くなる、そうしていれば周りも不快な思いはしない――大方あれはそんな考えでいるのだろう、全く彼女らしい、と夜隆は小さく溜め息を漏らした。
 例えば、怪我をした役人が医療施設に訪れて、自分の怪我はどうなるのかと青い顔をしているとき。寿藁は決して悲しげな表情は見せずに、手際よく手当てをする。そうして手当てされた患部を確かめ、陽のような笑顔で「大丈夫ですよ」と小さな手で頭を撫でられるのに、その役人がどんなに救われているかは言わずとも知れたこと。
 例えば、夜隆が山積みの債務に疲労しているとき。どこで聞きつけるのか寿藁はひょこひょこと現れて、頼まずとも手際よくお茶を淹れる。そうして淹れられた熱いお茶を啜りながら、花のような笑顔で「お疲れ様です」と言われるのに、夜隆がどんなに救われているかは言わずとも知れたこと。
 彼女の笑顔は夜隆の自慢だった。姿は変われど、それの持つ温かさは以前も今も変わらない。
 だからこそ、夫である夜隆はそんな妻が心配になる。どこか人知れず苦しんではいまいか、本当は笑いたくないのではないか、自分は夫として彼女に何もしてやれていないのではないかと。
 夜隆はもう一つ溜め息を漏らして、書類に埋もれんばかりである机の僅かな空き場所に肘を立て頬杖をついて、冷めたお茶を啜った。「お先に失礼します」と討伐使員たちが一礼して本部から出ていくのを、小さい返事と目線だけで見送る。扉が閉まると、すぐさまその壁一枚の向こうで騒がしくお喋りが始まったのが聞いて取れた。

「夜隆さん、これから書類片付け始めんだろ? そりゃ溜め息も出るわ……でも次の日には終わってっから凄い」
「まぁそれが仕事だからなぁ。大変だよ別当さんは」
「でもほら、夜隆さんはお仕事するとき寿藁さんが一緒って聞きますし。奥さんパワーですよ」
「なんでぇそりゃあ。龍悟はあれか、ろまんちすとぉか」
「鳳さんそれちょっと意味違ってる気がする」

 大音量にせよ、話し声は足音と共に段々と遠ざかっていく。それをいつの間にか耳をそばだてて聴いてしまっていた夜隆は、彼らのお喋りの内容にもその大声にも呆れた反面、奥さんパワーとは参ったものだと少々の苦笑を零し、入れていた力を抜く。あながち間違っていないのは夜隆自身がよくわかっていた。
 今日も今日とて旦那の仕事を嗅ぎつけ、呼ばれたわけでも急な用でもないのに急ぎ足で、ひょっこりと顔を覗かせるはずだ。
 夜隆はお気に入りである黒革製の椅子の背もたれに大きく寄りかかり、両目を静かに閉じて、靴で木床を軽く叩いてこつりこつりという無機質な音を出す。それを聞きながら、その中にかちゃりという小さな――そして待ち遠しかった音を見つけた。
 もったいぶるようにまだ目を開けないでいると、扉を閉める音、かさかさと藁の擦れる微かな音が続く。夜隆の頬は、意図せずとも緩んでいった。

「ずいぶんと嬉しそうなお顔で転寝していらっしゃるんですね」

 その声を合図に夜隆が瞼を持ち上げると、自然とお互いの視線が絡んだ。
 ふわふわと宙に浮かぶ、小さな枯れ草色の藁人形の体。いつか身に付けていた着物の一部である萌黄色の布を首に巻いて、紅白の呪符を頭に結び、いつものように目を細めて微笑んでいる彼女は、夜隆の待ち望んだ人――寿藁そのものだ。

「起きている」
「存じておりますとも」

 そう言うが早いか寿藁はくるりと空中で向きを変え、散らかった書類を手早くまとめて部類ごとに分けて規則正しく並べ、夜隆が制止をかける間もなく冷めたお茶を本部備え付けの小さな厨に持ち去り、しばらく賑やかな水音を奏でてから熱い淹れたてのお茶を持ってせかせかと戻ってきた。
 彼女が本部にやってきて十数分も経っていないというのに、全く目が回るほどの行動力だ。これには、比較的仕事の速い夜隆でも脱帽せざるを得ない。

「……仕事が速い」
「旦那様は珍しくだらけております」

 率直に返されたその言葉に当てられた夜隆は、間をおいて数度瞬きをして、そうかもしれないと苦笑いで返す。
 決して仕事が嫌だということもを怠けるつもりということもないが、どうにも気が進まないでいたところだ。手を動かそうとしても、気が付くとぼうっとして手も思考も止まってしまいらちが明かない。とはいえ、原因の見当はおおよそついているのだが。
 夜隆はこれで今日何度目かわからない溜め息を漏らし、冷めたお茶を飲むつもりで先ほど淹れられたばかりの熱いお茶を口に含み、慌てて飲み込んで気管に入ったのか勢いよく咳き込んだ。
 寿藁は、いつになくだらけていてついでにどじを踏む旦那の様子を、まるで珍獣を見るかのような目で見つめていた。これでは妻である寿藁でなくとも、夜隆が本調子でないことは明瞭に見て取れるだろう。

「今日はいかがなされました」

 尋ねる寿藁の声は、戸惑いの色を多大に含んでいた。ぺたりと夜隆の額に手を当てて熱は無いかと首を傾げ、何か調子が狂うようなことでもあっただろうかと考え込んでは首を傾げ、と、彼が心配で仕方がない様子である。
 当の夜隆はやっとのことで気管のつっかえを解消でき、忙しなく動き回る寿藁を手の平で軽く押さえ、机に座らせた。

「俺はお前が心配なんだ」

 寿藁が目を丸くして夜隆を見上げると、夜隆は表情を曇らせ、静かに続ける。

「いつも笑っている」
「よいことではありませんか」
「それが心配なんだ」

 夜隆の言い分に、寿藁は頭上に疑問符をいくつも浮かべて目を瞬かせた。どうやら、本人にとっては人に心配されるような事柄ではないらしい。
 しかし夜隆の方にとっては事柄は重大。彼女を思えば思うほど心配や不安は肥大する一方で、どうにかしてこれを解消せねば自分が頭痛に悩まされてしまいそうな度合に達していた。
 あれからその体に不便はないか、苦しかったり悲しかったりはしないか、それを我慢して無理に笑っていないかという心配ごとから、自分はお前に何かしてやれているか、果てには、自分と一緒になったことを後悔していないか、とまで口にする。さすがにそれは心配しすぎかと言った直後に取り消したが、夜隆が真摯に自分のことを心配してくれているのだということは、寿藁にもしっかりと伝わった。

「一つ言わせていただきますと。わたくしが笑っていられるのはあなた様のお陰でございます」

 寿藁は神妙な表情で夜隆を見つめ、続けた。

「元の体を無くしたときは、もう消えてしまうのかと思いました。でも、あなた様が止めてくださったから寿藁はここに在るのですし、この体に不満もございません。あなた様がわたくしの笑顔が好きだと言ってくださったから、わたくしは笑えているのです。本当は悲しくて苦しいのに我慢して、というようなものではないと断言いたします。もしそう感じたのなら、あなた様に自らお伝えすることができます。わたくしはあなた様に隠し事ができるほど器用ではございません」

 真っ直ぐで真率な思いの丈は、これ以上ないほど真っ直ぐで青々とした言の葉となって夜隆を貫いた。貫いて、すぅとそのまま胸の内へ溶け込んでいった。それが二人にとって当たり前のことであると指し示すように。

「ああ……そう、だったな」

 溜飲が下がったのかぼふりと音を立てて背もたれに寄りかかる夜隆を見て、寿藁は今までの硬い表情が嘘であったかのように頬を朱に染め、花の蕾が綻ぶように笑った。夜隆が寿藁の笑顔が好きだ、自慢だと言うのも頷ける愛らしさと柔和な雰囲気がある。こうされては、他の役人であろうと夜隆であろうと自然と頬が緩むわけだ。そして、これに励まされるからこそ夜隆は日々責務を苦なくこなすことができるわけだ。

「嬉しゅうございます、そのようにご心配いただいて」

 明るい声で口にしながら夜隆の左肩の上にちょこんと位置を取った寿藁は、「では、心配が片付いたところでお仕事をしなければいけませんね」と悪戯っぽく言った。

「その前に」

 夜隆は肩にきょとんとした寿藁を乗せたまま席を立ち、故意かと思うほど大きくかつかつと踵の音を響かせて本部の扉の前で立ち止まると、勢い良くその扉を開けた。

「盗み聞きは感心せんな」
「あら皆さん」

 夫婦の前には、今逃げ出そうと足を踏み出した体勢でぴたりと停止している見慣れた青い顔が三つ。危険を承知でしたことだとは思われるが、それぞれが冷や汗を流し唾を飲み込み、今叱咤されるかもう叱咤されるかと怯えた様子だ。
 さすがに今まで夜隆に何回も言いつけられたことで学習したのか無駄な言い訳をしないのはいいとして、言い訳を必要とするようなことをしてしまうのは学習していない、ような。
 夜隆は彼らの恐怖心を煽るようにゆっくりと目を細め、唇の端を僅かに持ち上げる。体勢を正して行儀良く並んだ討伐使員三人は、縮こまって「ひぇっ」と情けない声を出した。
 寿藁の目に映る夜隆は、蛙三匹を恐ろしい形相で睨む蛇などではなく、子供に恥ずかしいところを見られたので誤魔化すかわいらしい父親のように見えたが。

「お前たち……ただでは帰らせんぞ……」
「ふふ、夜隆様ったら」

 その日、普段の三倍程度の早さで書類の片付けが終わったのは、また別の話。